私はドイツの帰国子女で、日本のメーカーに入社し、ドイツ、英国、香港、シンガポール、インド、タイに駐在しました。振り返ると仕事では海外の方が長く、この経験をシリーズで話したいと思います。

 

ドイツ現地校体験談

ドイツ私が初めてドイツの地を踏んだのは1960年、生れて10ヶ月の事でした。父はドイツ北部の町、キールにある世界経済研究所に研究員として派遣されました。住んだのはキール近郊にある村で、一軒家の2階の部屋でした。日中は母と1階に住む大家さんと過ごしており、私が歩行を始めたころは、そこに住んでいた庭仕事が好きなお爺さんの後をいつもついてまわっていたそうです。1歳を過ぎても、なかなか話しはじめない私のことを両親は大変心配したようですが、漸く話すようになったと思ったらドイツ語だったと聞きました。3歳で帰国すると靴のまま家に上がる習慣を直すのに苦労したとの事でした。

2度目のドイツは小学校2年生から6年生まで過ごしました。当時の西ドイツの首都であるボンに住みましたが、首都と言っても人口が約30万人、日本人は家族を含めて100名程度と非常に小さな世界でした。70年代のドイツは今と違い、移民もほぼいなかったため、小学校では初の外人が私、今まで見たことのない黄色い肌、黒い髪・目の東洋人です。さぞ珍しかったのだと思います。休み時間になり校庭に出ると関心のまととなり、多くの生徒に囲まれ、ほっぺたをつねられたり、髪の毛を引張られたりしました。その表情は興味深さに満ち溢れ、決して悪気は無く、見たことの無いものへの驚きと興味からの行動だと感じました。

授業では言葉が出来ない私にクラスメートは優しく接してくれましたが、何も分からない辛い日々が続きました。夜に父が帰宅すると、ドイツ語を一生懸命教えてくれるのですが、それが何も分からない授業より苦痛だったのを覚えています。そんな言葉が全く出来ない環境でもどうにかなるもので2、3ヶ月もすれば普通にしゃべれるようになっていました。本当に遊びたい、何かをしたいという意志があれば語学力の壁を乗り越え、やがて話せるようになるのかも知れません。

 

小学校教育は4年生まで。その後は専門分野へ

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当時も今も、ドイツの小学校教育は4年生に卒業という節目を迎えます。4年生を卒業し、大きく分けると大学進学コース(ギムナジウム)に進むか、専門学校コースにすすむかを決めます。マイスターという言葉を聞いたことがあると思いますが、専門学校を卒業して例えばパン職人のマイスターになるか医学部に進みドクターになるかといった、それぞれの専門分野に進む仕組みです。ただ、小学4年生で人生の進路を決めるのはあまりにも早く、その進路には親の判断が大きくかかわっているのが現状だと思います。その結果、代々のパン屋さんが続いたり医者の家系だったりする傾向が強いのではないかと考えます。

私の場合は大学進学コースに進むことになったのですが、普通は外国の子供達が進む進学校に行くところ、小学校の友人と同じローカル校に通いたいと強く希望しました。父は私の我が儘を聞いてくれ、学校に交渉し、入学を認めてもらえました。結果として、そのギムナジウムでも初の外人という事で、また珍しがられる事になりました。入学すると第一外国語は友人と同じラテン語を選ぼうとしたところ、私の我が儘を聞いてくれていた父もさすがに猛反対し、英語に選択を変えさせられましたが、そのことも今では感謝しております。

 

帰国後の学校生活

1468741小学校の6年の終わりに帰国すると近所の公立小学校に入学しました。日本語の補習校さえない無いボンから戻り、国語が苦手な私に校長先生は5年生への入学を勧められました。ドイツで落第しなかったのに母国で落第したくないと強く思い、何とか6年生として入学させてもらいました。ドイツでは小学校でさえ適正、能力、病気などの理由で留年することもあります。反面、優秀であったり、勉強を頑張ったりすれば飛び級もあります。実際、小学校の友人は病気が理由で落第したものの、頑張って飛び級し、追いついたのを目の当たりにして、素晴らしい仕組みだと感じました。

数ヶ月して小学校を卒業し、中学は当時では数少ない帰国子女を受入れる成蹊学園に合格出来ました。自分の子供には「お父さんは2番の成績で入学した」というのが自慢ですが、受験生は二名だけでした。帰国子女がまだ珍しい時代で中学、小学5,6年合わせてバス1台で修学旅行に行ける規模で、中間、期末試験も提出すると、その場で採点がされ成績がつく、のどかな雰囲気でした。

生徒全員、漢字という共通の難関に立ち向かっているため仲間意識が強かったと思います。しかし、休み時間はアメリカ帰りの生徒が過半数を占めたこともあり米語が主流を占めていました。幸いギムナジウムでの英語教育を受けたのに加えて英語とドイツ語の類似性のおかげで、さほど苦労せずに米語にも慣れることが出来ました。ただ、米語を話す学友からは英国帰りの友人と共に、英語なまりを馬鹿にされたのには閉口しました。

 

その後、香港、シンガポール、インド、英国と英語を話す国々に駐在しましたが、同じ英語といえども、その多様性には驚かされ、苦労もしました。

 

 

 

2106 プロフィール画像|h-tanaka02

著者:田中 秀彦 (たなか・ひでひこ)
株式会社ジェイシーズ  上席執行役員 海外事業展開・戦略アドバイザー
大手精密・光学機器メーカーNikonにおいて、30余年にわたり海外ビジネスに従事する。この間、ドイツ、英国、香港、シンガポール、インド、タイなど、20年以上を海外で過ごし、特にドイツ、英国、インド、タイでは現地法人のマネジングディレクター(社長)を務めた。営業、マーケティング、事業企画といった領域を本職とするも、中国工場の設立や、インド法人をまったくのゼロベースからたった独りで立ち上げるなど、業務領域の垣根を越えた多彩でタフな一面を持つ。2017年6月より株式会社ジェイシーズに参画。豊富な見識と広範なネットワークを活かし、日本企業の海外展開を支援している。

 

株式会社ジェイシーズ  https://j-seeds.jp/

連絡先:contact@j-seeds.jp 

 

 

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